
私にとって「ワーキングマザー」はごく自然なことだった。働くことが好きだし、働いている自分が好き。仕事も面白いし、何より人と協力して何かを為すのが楽しい。
私は働く母の背中を見て育った。母は格好良いと思った。社会の中で揉まれた結果の問題解決能力がある人だと思った。母の言っていることには重みがあった。反発も良くしたけれど、母を尊敬しない日はなかった。
私はたまたま環境が整っていて、だから妊娠しても出産しても、また仕事人に戻ることは自分の中で疑問のないことだった。
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先日、夫は友人とスキーに行った。学生時代からの友人との恒例行事である。
この友人たちは私にとってもそうで、だから泊まりでスキーに行くことに反対の気持ちはなかった。むしろ、お土産話を聞くのが楽しみなくらい。
一方私はこれ幸いとばかりに、娘を連れて実家に泊まった。こういう日は母業もお休みして、娘に戻る。
実家の家族や兄弟は娘ラブなので、それはそれは良くしていただいた。
おかげさまで私も家事に時間を取られることもなく、娘とたっぷり遊ぶことができた。
好きなものを発見した時に、「あー!」と感動しているのがかわいい。
ぬいぐるみにキスしたり、ぎゅーっと抱きしめたり。
永遠に滑り台で遊んだり。

リビングでまったりしていたら、娘から突撃を受けた。
優しくハグされ、「ちうーー」と言いながらのほっぺにキスの嵐。
甘えた声を出して、ニコニコしながらあちこち撫でて、抱っこして。
もう、本当にかわいい。「嬉しい楽しい大好き!」を素直に全身で表現している。ママ大好きだよ、が伝わってくる。こんなにもこんなにも、好きでいてくれるなんて。
あ、もしかしたら、仕事をしていない人は、この瞬間を私より多く味わっているのかもしれないなぁ、と、ふと、そう思った。
私は、働いていることに後悔はない。誇りもある。辞めるという考えも、今のところ、ない。
それは事実なのに、納得しているのに、でもいま起こっているこの幸せな時間に、くらくらしそう。もちろん、家庭で保育するということは、楽しい一辺倒ではない。私には到底理解も及ばないような苦労もあると思う。だけど、確実に、子供と共有できる幸福な時間は、私たちワーキングマザーよりは多いと思うんだ。それはいわばご褒美だと思う、一生懸命家庭で保育をしている方の。
子供と接する時間が少ないのに、「大好き」をもっと表現してなんて、そんな都合の良いオトナの言い分を願うことすらおこがましい。わかってるよ。でもこんなしあわせな時間があるなんて知らない。ああなにこの時間は。私が好きな人が私のことを好いてくれる、コミュニケーションの究極の形が今ここにある。こんな時間はね、もう少ないと思うんだ。あと10年、いやそんなにないかもしれない。
実家の母にきいた、「赤ちゃんや子供ってこんなに親のこと好きなもの?」。3人育てた母は答えた、「そんなものよ」。彼女は子供を保育園に入れず、私たちをおんぶして仕事をしていた。幼稚園に通うまで。さぞかし大変だったろう、気もおかしくなったろう、でもその分こんな幸せな時間を得ていたんだなぁ。
私にできることってなにかしら。それはいま、この幸せな時間をめいっぱい享受して、感謝すること。忙しない毎日の中で、娘に愛してるよって、よくよく伝えること。その中で娘が、また、この日みたいに、私に愛を表現してくれれば、それはそれは嬉しい。だけどね、そんなこと強要したりしないよ。なんだろうね、いま、こんなに幸せなのは、君が私のことを好いているのがわかったからなんだけど、それ以上に、私の愛が君に届いて、満たされて、その結果自分もそれを表現しようと思ってくれた、その心の健康が嬉しいからなのかもしれない。
だからその心の健康が永遠に守られるように、好きだよって伝えるしか、今の私にはできないかもね。それでもいいかな。ごめんね、ママ、働くの好きなんだ。ママのママもきっと、ママが、自分の人生を生きるよう願って育ててくれたんだと思うんだ。働いたり音楽をしたり、これがママの人生なんだ、きっと。だけど君に寂しい思いはさせないようにがんばるからさ。全身全霊をかけてがんばるからさ。体力と気力のある限り。この命の燃え続ける限り。
時間が無限にあればなんでもできるけど、生憎そうはできてないから。私の持てる力で、精一杯この子を育て、一緒に過ごせる少ない時間を楽しもう。柔らかくてほわほわな幼い体を包みながら、1人そう決意した。

